こんな実験研究をされた学者がいるそうです。 知っている人の写真なら多くの枚数から的確に選択できますが、知っている方の目、鼻、口、耳だけを取り出して、複数枚から選択するのは、結構至難の業のようです。 さて、みなさんは、今までに、このような経験はないでしょうか。ある議題を検討し、全体的にある方向性が見えてくると、それまで議論されてきた内容や細かな出来事をどのように処理し、判断してきたのかを忘れてしまうことはありませんか。また、自転車や水泳などの運動に関することは、一度覚えてしまうと、数年経過しても同じ繰り返しが可能である。しかし、どのようにしてそれをマスターしたかは、覚えていますか。伝統工芸の職人が、素晴らしい作品を作る技は、なかなか真似することができません。失敗を繰り返し身についた技術なのです。マニュアル化して誰もが真似できたら伝統で無くなってしまうかもしれません。 科学哲学者のマイケル・ポラニーという方が、「暗黙知の次元」の著書の中で、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」と述べています。 暗黙知をすべて形式知に置き換えられることは出来ないと考えたほうがよいようです。よって、工芸職人のマニュアル化はできません。しかし、経験から得たらた知識・技術をどのうように生かすかは、各人に問われているのです。人は、自立し主体的に生きてこそ、命が輝くものです。人類、一人ひとりが得られた暗黙知を生かせる時代が必要だと思います。ビッグデーター化し、何を選べいいのか分からなくなり、コンピューターにその選択を依頼することが多くなれば、暗黙知や経験知は、どうなるのでしょうか。主体的に生きることが、これからの生きる世代のキーワードのような気がします。
暗黙知と形式知から学ぶこと
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